11月10日に高田城址公園オーレンプラザで「福祉・介護・健康フェアin上越」が開催されました。主催は新潟日報と新潟県社会福祉協議会と上越社会福祉協議会。私は「ポンコツ一家の生活-私の家族と私も知りたい介護の話-」と題したお笑い芸人のにしおかすみこさんのトークショーを聴きに行きました。認知症の母親、酔っぱらいの父親、ダウン症の姉とすみこさんの4人家族。苦労をサラッとお笑い芸人らしく笑いに変えて話をしてくださいました。同年代でもあり、認知症の家族と生活を長くしていた私には「うんうん」「そうそう」とまるで赤べこのようにうなずくことばかりでした。
最後に介護のあり方を問われた時に「怪我をしている人がいたら『〇〇さんがひざの怪我をしている』と見るのに、認知症だと『認知症の▢▢さん』、障害だと『ダウン症の△△さん』とまず先に病名や症状が先行してその人を見ようとする。認知症や障害もそれぞれ違うのに、ひとくくりにしてその人を見ようとするのは違うと思う。怪我と同じく「▢▢さんは〇〇の症状がある認知症」とまずその『人』を見てほしい」という内容。これには私もそんな目で見ていたと思い、ドキッとしました。そして「認知症の人も障害を持っている人も、今まで生きていた人生がみんな違う。一人一人が歩んできた過去も大事にした福祉であってほしい」とも。これは至極私も同意する言葉でした。
私が過去に担当した被保佐人は身長も高く、虫の居所が悪いと暴言や手も出てしまうような人でした。その彼が病院を退院した時、退院手続きが長引きイライラして、病棟で大声を喚き散らしていました。病院を出る頃には怒りがピーク。このまま施設には帰せないと思い、なだめすかしながら少し寄り道をして帰ることにしました。そこで彼の過去の仕事を尋ねたところ、電気工事士だったと話してくれました。そして嬉々として当時の工事の武勇伝を次々に話しをしてくださいました。私も弁護士も、施設も誰も彼の過去の職業が電気工事士だったことは知りませんでした。彼の様子を見て、生い立ちを知ろうとしなったことを反省しました。彼は施設に着いた時には般若の顔が穏やかな表情に変わり「たのしかった。またな」と手を振ってくれました。施設の方には事情を説明し、電球の交換などの作業があったら彼にさせてあげてほしいとお願いしましたが、それが叶うこともなく2カ月後に急逝してしまいました。もし施設に介護士や相談員が十分に配属されていたら、彼の過去に耳を傾けていたかもしれません。そして彼はもっと充実した日々を送れていたかもしれません。
にしおかすみこさんの話を聞いて当時の彼のことがふと浮かび、利用者様の人生を尊重した介護をするには、介護の人材不足の解消が急務なのではないかとあたらめて感じました。私も他人事と思わず、どうしたらよいか馬場県議と模索していけたらと思います。 🍙いばらき